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トニーワンは伝説のバーである。 バブル崩壊まで、名門バーが軒を並べ、夜毎、センチョンゾクと呼ばれた単身赴任の親父共を楽しませた本格バーの聖地仙台において、仙台の若者向けのリーズナブルなショットバーの先駆となり、デファクトスタンダードとなったバーである。 ぼくらは、この店の名前を縮めて「トニワン」と呼んでいた。この店は、常連もバイトも、先輩から後輩へと受け継がれ、呼び屋が、ロックミュージシャンを連れてくる店として密かに名を馳せた。 ある晩、バイトを終えてバンド仲間の佐藤とトニワンに行く途中、丁度金英堂薬局の前で、ギタリストのCharに「トニワンってどこ?」と尋ねられ、連れて行ったことがある。ジョニー、ルイス&Charのコンサートがあった夜で、ルイスは一緒ではなくて、Charとジョニーだけだった。ジミヘンそのもののかっこで決められるのは、あのお二人おいてはいないでしょうってくらい決まってた。また、別の晩、店にはいると、ARB時代の石橋陵とキースがいた。石橋陵は、近所のカッコイイ兄ちゃんという感じで、終始にこにこしたナイスガイで、僕がサインしてくれと頼むと快く応じてくれた。バイトで呼び屋を本格的にやっているという佐藤の同級生にも場所を尋ねられたことがあった。彼はサザンオールスターズの前のギタリストを連れていた。トニワンへ下りる階段の間口は狭いので、金英堂の当たりまで来ても中々見つけられなかったのだろう。 トニーワンは、稲荷小路と虎横丁の角を国分町側に曲がってすぐ、「牡蠣徳」のむかいがわ、今は別の場所に移ってしまった「軍鶏(とうまる)や」の脇の階段を下りた地下にあった。 広くない店内は、いつもあいている五六人程が座れるカウンターと、5つほどに仕切られたしょっちゅう満席のボックス席だけの店だった。 この店で客を最初に迎えるのは、床一面にまき捨てられている南京豆の殻であった。席に着いて最初に行う儀式が、前の客が残していった、テーブルを覆う南京豆の殻を床に払い落とすことと、お通し代わりの南京豆つかみであった。南京豆は樽からつかみ取る。食べた南京豆の殻は、そのままテーブル上に残しても良いし、その場で床に捨てても構わなかった。南京豆の殻を捨てるという流儀が、世間知らずの僕には新鮮だった。 ぼくらのトニワンでの最初の一杯は、有無を言わさずサントリーの純生だった。これがまた、軽くてケポケポいけた。このビールは、いつも心地よく喉を潤した。今にして思えば、薄くて味気ないビールだったけど、あの頃ビールはビールでしかなかった。発泡酒や第三種のビール等という、薄気味悪い飲み物で、飲み屋の洗礼を受けずに済んだ僕らは幸福であった。 僕は、よくバンド仲間と来ていた。キーボードの佐藤とは毎夜、最初にこの店に連れてきてくれた大鷹先輩、ギターの松本、ヴォーカルの織田やドラムの武田、ベースの菊地・平山、猪俣達とは日替わりで酌み交わした。僕らが青春の日々とともに消費した、サントリー純生とレッド、I.Wハーパー、VOといったリーズナブルな酒は、どれほどの量になるのだろう。安い酒でも、飲み方に応じたグラスで出してくれた。 トニワンは、格式の高いバーと違って、本格カクテルや高級スコッチウイスキーを売る店ではなかったが、独自の流儀とプライド持っていた。僕らのような貧乏学生を見据えつつ、安く出せるお酒で、本格的な飲み方が出来たし、手作りの料理をリーズナブルに提供してくれた。本場のパブを彷彿させる雰囲気を湛え、何年も、何十何年も変わらず、媚びず、離れず、客をもてなしてくれた。 僕を含めOB達が、社会人になり、足が遠のいて、たまにふらり立ち寄っても、学生時代と同じ木訥なマスターが店を仕切っていた。 僕が転勤で十数年仙台を離れ、滅多に来なくなっても、よく覚えていて「今何仕事してるの」とか「仙台にいるの」なんてぽつりぽつりときいてくれたりした。 たまにしか訪れなくなった僕は、かつては座らなかったカウンター席に一人で座り、ボックス席で飲んでいる若者達を時々横目で見ながら、その姿にかつての自分たちを重ね合わせて5年、10年という年月を噛みしめていた。トニワンは、僕の青春のある時期の記憶をしっかりと収めていたフレームであった。 そのトニワンは、いまはもう閉めてしまった。 5年ほど前、盆の帰省で仙台に帰ったとき、7〜8年ぶりに訪ねたら、店の前は物置のようになってひっそりしていた。休みではなく、閉店時間を過ぎたわけでもなく、釘でしっかり蓋を打ち付けられた棺桶と同じくらい、確実にバーは閉まっていた。 僕は階段を上がり、トニワンの前の虎横丁で呆然としていると、すぐ側で呼び込みをしていた兄ちゃんが「もう、トニワンは閉めたんだよ。つぶれたんじゃなく文字通り店を止めたんだ。オーナーが店を売ってどこかでのんびり引退生活を送ってるてぇ話らしいよ」と親切に教えてくれた。僕は一瞬全く知らない街の一角に立って、帰る道を見失ったような気がした。それ以来、仙台に戻ってきた今も、国分町にはめったに足を向けなくなった。 国分町やそれ以外の馴染みの店は無くなるか、すっかり様相を変えて、ケツに根が生えているような客層から、たいして旨くない料理でもおいしいと言い、価値相応とは思えない料理にも快くお金をはらう、評判盲信の客層にターゲットを変えてしまった。 トニワンはショットバーだったけれど、アットホームで、気心の知れた仲間と何時間でもいられるというバーの本質をしっかりと守っていた。また、4半世紀も続けられたのは、きちんと利益を上げていたからだろう。忍耐強く客を受け入れ、良い部分を変えずにやってきたから、OB客が次世代の客を連れてきたのだ。 自分の経営の仕方が悪くて儲からないのを客のせいにし、徒に単価を上げて高級さを装っている僕のかつての馴染みの店もあるが、そこは、OB客達が支えてくれたことの上に今の店が成り立っている事を忘れているようだ。 このような店が残り、トニワンの様な店が無くなってしまうのは時の流れなのであろうか。ギミックやマスコミに取り上げられたというだけで店の価値が決まってしまうのは、確かに客の側にも問題があるが、良い店の本質は、そんなに変わらないはずと思うのは僕だけだろうか。 行きたい店が少なくても困らない、今の自分が寂しい人間なのだなと思う今日この頃である。 By いえてぃ
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