かつて宮城県内に独自の杜氏集団がおり、
酒を造っていたことを知る人は少ない。
その名を「狼河原杜氏(おいのがわらとうじ)」と呼び、
東和町(旧米川村)狼河原地区で酒造りをしていたという。
『東和町史』によれば江戸時代に狼河原地区で酒造りをしていた家は
最低でも7軒を数えることができるとし、
安永3年(1774)の『狼河原村風土記書上』では
名産品として「酒」があげられている。
また村田町に伝わる江戸時代の文書『酒造集』には、
その著者が登米郡狼河原村の杜氏の酒造りを学ぶため
2年間狼河原村に住んで秘方も許されたとの記述がある。
さらに『宮城県酒造史』では
「狼河原杜氏は明治初年頃まで県下酒造家の一部で雇傭していたと
語り伝えられている」としているが
「その後、いつしか狼河原杜氏は姿を消し、
県下一円南部杜氏にとって替られた」とある。
現在狼河原地区に酒造家はなく、狼河原杜氏もその姿を追うことはできない。
さて「楽天市場」で「杜氏」を検索すると、
東北地方の杜氏として「津軽杜氏」「南部杜氏」「会津杜氏」「山内杜氏」
があげられている。
何かが足りない、そう、かつて東北地方を席巻した
「大山杜氏」(庄内杜氏)の姿が見えないのである。
大山杜氏は鶴岡市大山地区を拠点とした杜氏集団で、
また大山地区は東北地方を代表する銘醸地として
「西の灘、東の大山」と並び称されていた。
江戸時代後期には34軒の酒蔵が軒を並べ、
酒の副産物の酒粕を使って奈良漬を作る技術も伝えられ、
老舗の漬物店「本長」はその名残である。
大山地区が酒どころとなったのは、米どころの庄内平野を背後地に持ち、
酒田港と並ぶ日本海の交通の要衝加茂港が目の前にあり、
北前船で灘や伏見などの酒造の先端技術が伝えられ、
またその北前船で他地域に酒を積み出すことができたからであった。
最盛期には4,000石の生産量のうち880石が「沖出し」として船積みされた。
この酒造りを支えた大山杜氏は、
他の多くの杜氏が農家の出稼ぎであるのに対し、
冬場に日本海が荒れて漁ができない漁師を中心とした杜氏集団であった。
江戸時代に近隣の秋田や新潟の酒が大山酒に圧倒されたため、
秋田や新潟の蔵元は自分たちの蔵人を競って大山地区に修業に行かせ、
彼らが戻ってきて「山内杜氏」や「越後杜氏」が誕生した。
この大山酒の進出は明治になっても続き、
今日の東北の大手酒造メーカーである湯沢の「両関」や
会津若松の「末廣」は大山杜氏を招いて酒造りを学んだことを明言している。
その大山に残された蔵は現在
「大山」「栄光富士」「羽前白梅」「出羽の雪」の4軒だけになってしまった。
大山杜氏による他地域の蔵での酒造りも減り、
宮城県内では40の蔵元のうち中新田の「真鶴」だけである。
なぜ大山杜氏と大山酒が衰退したのか、
一つは鉄道の普及で海運業が衰退する一方、
灘などの酒が鉄道輸送されてきたこと。
明治20年代以降の酒造改良に乗り遅れたこと。
戦中の酒造業の統廃合で多くの蔵が解体されたこと、などである。
他山の石以て玉を攻むべし、であろうか。
(その2 了) |
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